1952

光洋産業株式会社は神戸にて設立。

ゴム製品や繊維製品の製造から始まり、やがて日本国内向けのスポーツシューズを「コーヨーベアー」ブランドで手がけるようになりました。

コーヨーベアーによる日本のバスケットボールシューズの広告
日本卓球界のレジェンドである荻村伊智朗

1960s

コーヨーベアーは、世界卓球選手権で12回の優勝を誇り、卓球用品のパイオニアでもある荻村伊智朗氏とのコラボレーションを実現します。

世界初となる、プロ卓球選手専用のスポーツシューズ「シャープマン」を共同開発。

ほどなくして、シャープマンは日本のトッププレーヤーたちに愛用されるようになります。

コーヨーベアーによる1970年代の日本語のヴィンテージ広告 - コーヨーベアーの卓球シューズ、シャープマン

1968

荻村氏のサポートと日本人選手の国際舞台での活躍により、コーヨーベアーのシューズは海外でその存在をさらに印象付けました。

1960年代後半までには、コーヨーベアーは卓球界を代表するシューズブランドとなり、世界中の選手たちに着用されるようになります。

1968年に出版された日本の卓球雑誌『卓球レポート』の表紙。コーヨーベアーのシャープマンを履く日本人選手。
1971年に名古屋で開催された卓球世界選手権の表彰式で世界チャンピオンのステラン・ベンクソンを祝福する伊藤繁雄

1971

名古屋で開催された第31回世界卓球選手権では、ステラン・ベンクソンが、アジア人以外の選手としては約20年ぶり、スウェーデン人選手としては史上初の世界選手権タイトルを獲得。

コーヨーベアーのシャープマンを着用した荻村の教え子であるステランは、男子シングルス決勝で世界チャンピオンであった日本の伊藤滋郎を破りました。

シャープマンを着用したもう一人の選手にもスポットライトが当てられました。アメリカ代表のグレン・コーワンです。

アメリカチームのバスに乗り遅れたグレンは、代わりに中国代表チームのバスに乗り込みました。

当時、両国は政治的に対立していましたが、彼の豪快な性格が中国チームの心をつかんだのです。

これが後に「ピンポン外交」と呼ばれるようになるきっかけとなり、ニクソン大統領と毛沢東主席の歴史的な会談、さらには中国の対外開放へと発展しました。

ピンポン外交時の1971年に中国を訪れた米国代表卓球選手のグレン・コーワン
ピンポン外交のきっかけとなった出来事。1971年に名古屋で開催された卓球世界選手権にて、中国の荘則棟選手と親交を深める米国代表のグレン・コーワン選手

1970s

コーヨーベアーはラインアップを拡大し、様々なスポーツに対応する高品質なフットウェアをリリース。

コーヨーベアーのスポーツシューズを履く日本人バスケットボール選手たち
コーヨーベアーのスポーツシューズを履く日本人バレーボール選手たち

これらのモデルの多くは、日本のアマチュアからプロフェッショナルまでに広く着用され、各分野のマーケットリーダーになります。

バレーボールシューズ「リヴォ 6」は、日本バレーボール協会に公認され、日本のトッププレーヤーたちの間で確固たる地位を築きました。

バスケットボールでは「ソッコー」シリーズが多くのトッププレーヤーの支持を集めます。

1983年に発売されたコーヨーベアーのバスケットボールシューズ「レーザー」

1980s

コーヨーベアーは「Made in Japan 」の新世代スポーツシューズを導入します。

コーヨーベアーの代表作である「シャープマン」の後継モデル、「シャープマン ニンブル」を発売。

バスケットボールでは新しいモデル「レーザー」で引き続き時代をリードしました。

1989

1980年代半ば、日本のゴム産業は劇的な不況に見舞われます。急激な為替変動や人件費の高騰、低コスト国への企業移転などにより、光洋産業のような日本のゴムメーカーにとって持続不可能な競争環境となり、1989年に光洋産業は廃業。「コーヨーベアー」ブランドは休止となりました。

日本のスポーツシューズブランドであるコーヨーベアーのヴィンテージシューズボックス
日本卓球界のレジェンドである荻村伊智朗

2015

それから四半世紀後、荻村伊智朗の軌跡をたどる愛好家たちが、東京にある荻村により設立された卓球クラブの地下でブランドを再発見。

彼らはコーヨーベアーを復活させるための活動に乗り出します。